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6月へ
5月へ
4月へ
日赤の医者から入院している母親の緊急の案件があるので来て下さいと札幌の私の所へ連絡が来る
実家より此方に連絡が来るようなのでお察し下さい
医者「あと一ヶ月もたないでしょう」
道化「は?」
いや、意味はわかるが理解したくない
エアボンベなどの手続きを業者と行い自宅に戻らせた、日赤よりはマシだろう
母はもう何かを支えにしなくてはまともに歩けなくなっており
タクシーまで握っていた手は驚くほど弱々しかった。
こういう時、何故免許がないんだろうな…とほとほとに感じた
まぁ、鬱病患者が運転して自殺なんぞしたら他人に被害がかかるからな
※(……気分が荒んでいたせいなのか字が荒れていて読めない)
着替えや常備薬、特に坑鬱剤が切れていたのでテンションがやばくて
取りに戻らないと生きていく自信がないので
夕食に作った卵落としお粥(刻み葱入少々)を出しながら母に札幌に戻ると告げた
朝、母が話がしたいとケータイにメール着信
ある程度自分でも把握しているのだろうもう長くないと
昔話をされ俺はトラウマを抉り出された。
本人は謝罪のつもりかもしれないが、こっちにとっては苦痛でしかない
一つだけ例を挙げよう
母「ちゃんと名前考えてあげればよかったね」
私(30年おせーよ!!!!!!!!!!!)
だが、まともに会話できたのはこの日が最期だった
GW明け、北見に戻りたくなかったが戻った。
衰弱振りを見て愕然とした、何せ碌な食事が摂れていないのだ
父の料理が酷い、病人にはご飯じゃなくてお粥だろうが!と父の大してキレた
私は一年間お粥だけの食生活をしたことがあるスペシャリストだ
お粥作りにはかなりうるさい、けど食べる量が圧倒的に少ない
このままでは餓死すると思ったので12日に日赤に任せるのは嫌だったが入院させた
日赤に行くまでがだるい、鬱が治ったら免許取ろうとマジで考える
だからバスで病院まで行く
チューブだらけの母を見て13年前の自分を思い出すが
全く生気がない、生きる意志が感じられない
何せ今まで病気なんぞしたことのない人だ、つーかうちの家で病気してるのは私だけだ
薬とも無縁で弱い鎮痛剤でも効きまくる、私には効果がなかった鎮痛剤でもだ
鎮痛剤のせいで意識が朦朧とするようで私を認識できなくなって暴れ出しそうなこともあった
眠るまでなんとかなだめ抑えて、私は外に出て泣きそうになった。
私の目から見てこれは六月までもたんなと感じた、自分でも残酷な判断だと思う
だが、私が入院していた時にはこういう患者は絶対に病院から出る時は……
来週病院があるので札幌に帰ったのだが、医者から容態が急変したと一番最初に私に連絡が来る
戻ってきて欲しいと、正直実家の連中は何やってんだと思う
4時間30分かけて北見に戻り、日赤までタクシーを飛ばす
母はもう私を私だと認識できなくなっていた、完全に
それから寝ずに付き添うが、兎に角看護士の仕事が雑だ
札幌の病院と比べると、コレはヒドイ。 物を置くたびに効果音が生じる
勿論夜中でも足音は控えない、処置も雑、ナースコール押しても中々来ない
この程度の気遣いも出来ないのだから道東の北見という田舎町の日赤に居るわけだな
札幌なら雇ってくれないぞ、マジで
看護士の床擦れ対策が酷い、こっちが今体勢変えたばかりだと提言しても
これは規則ですのでの一点張りでひっくり返す、だから今そっちの体勢で寝てたのに……
で、変え方が酷い、点滴や酸素のチューブが外れるんじゃないかと思うぐらい雑
擬音で表すとドサッって感じかな、酷い酷すぎる
これでは毎回体力が削られていく、いやそれが狙いなのかと疑ってしまう
00:00
まだこちらの手を握り返す力があった、話す事は出来ない
鎮痛剤が効いて安定して眠ったようだ
02:00
例のマニュアル床擦れ対策タイム、私が何度も今体勢を変えたばかりだと訴えても
規則ですからの一点張り180℃ドスンと引っくり返しやがった
呼吸が荒くなり、容態がより酷くなった
03:30
呼吸が弱くなりナースコールを押して医者を呼べと言ったが
当直の医者が全然来ない、看護士すら来ない
03:35
呼吸が止まった、看取ったのは……
私は膝から崩れ落ちて泣いた泣いた
声をあげて泣きたかったが頭の中で冷静な声が響く、今は夜だと
03:55
やっと医者が来る、蘇生措置すらしようとしない瞳孔確認、時計確認
医者「ご臨終です」
正直ぶん殴ってやりたかった、それ20分前にやれよ……
その後、火葬に必要な死亡診断書や葬儀社への連絡や手続きをやってから
札幌へ、ちゃんとした病院に行くため札幌へ。 親族への連絡は押し付けた、やっとられんわ
切符が取れず昼頃の切符となる
北見到着予定が16時〜17時、ギリギリだ
何とか通夜の準備時間に間に合うが兄が施主をやりたがらない
キレた、やらせた。 人前じゃなかったらぶん殴っていただろう、そしてきっと殴り返された
父方の家と母方の家は断絶状態だったので
通夜の席では様々な話が聞けた、この時、自分が初めて4人目の子供だと知る。
どうやら他言無用の緘口令が敷かれていたらしい、本当に予備だったんだな
母方の家は「土建屋」だった、母が土地を持っていたのも頷ける
泊りがけは父方の家しか残らなかった。
過去の禍根とかって正直アホくさい、口には出さなかったが顔では思いっきり出てたらしい
23時頃つまみのオードブルが尽きる。
これはどう考えてもスイーツ分が足りない
いいか、スイーツ(笑)は油っこいものを食べた後、口の中をさわやかにしてくれるものだ。
だから(ry
酒だけ残ってどうするよ?
私は兄や父が既にイビキをかいて寝てるのを尻目に酒を片手に線香を立て続けた
正直、私を心配してくれる従兄弟たちの方が家族らしいや
だが体面上は家族が線香を立て続けるものだろう? だから道化を演じる、私は道化師だから
道化師とはよくも名付けてくれたものだ。
周りを無視してでも道化を演じ続ける、続けられなくなった時が終わりだ。
この仇名を付けてくれた奴は今どうしているだろう?
「黒い道化師」は本名と比べるまでもなく好きなのだ。
日付が変わっても線香の番は続ける
従兄弟達が心配してくれるが私は続ける、これが私の役目なのだから
しかし賢い従兄弟達は酔い潰そうとしたのか酒をガンガン注ぐ、最初に日本酒しか飲まないよ
と言っておいてよかった、返杯でウィスキー飲ませてたら次々とダウンしていった、少しほっこりした
どうしてこの従兄弟達が家族じゃないんだろうな、冷たい兄や父を横目に見つつ線香に火を灯す
>告別式
を終えて火葬場へ
出棺する時、崩れ落ちそうになった、何日寝てない?
精神的にも体力的にも限界で気力だけで立っていた
……骨箱を持つのは施主じゃないのか? こんなにも軽くなってしまった
私は出来のいい子供じゃなかったが、あなたもそうだろう? 母さん